海外に滑りにいった事はありますか?
Photo:平成20年3月28日 Alasla
私が初めて滑りにいった海外はカナダ。92年の夏でした。
サーフィンもしてはいましたが、スケートボードの自由な感覚に憧れていたので、ちゃんとしたハーフパイプを見てみたかったし、滑ってみたかったから。
ニセコに来る前の話です。
当時「バックカントリー」という言葉はなかったけど、パウダーを滑ることから得られる感覚は素晴らしかったのは事実。
スノーボード滑走を目的としたバックカントリーの世界を開いたGENTEMSTICK玉井太朗氏に鍛えて頂き、アラスカ、シベリアなどヘリコプターを利用したスノーボードを経験するチャンスにも恵まれました。
1995年~2005年にはヘリやキャットだけではなく、セスナで氷河に入ってキャンプしながらの登攀滑走までを精力的に行い、人力以外の動力を多用したスノーボードの可能性を追求しました。
そういった個人的な遠征を通じて得られたノウハウを投じて2004年~2011年にはパウダーカンパニーの参加者を対象に「高久智基と行くアラスカヘリスノーボード」やNZ、南米など「高久智基と行くシリーズ」の少人数性の海外遠征ツアーを「クラブ活動」として行いました。
海外でのガイドに関しては保険や資格の問題がある為に現地のガイド団体を利用するのですが、少人数なのには理由があります。
それはヘリにやキャットに乗れる人数に限りがあるからです。
「アラスカ州バルディーズ 白夜の聖地」というナレーションが思い起こされます。
90年代後半のアラスカ、特にバルディーズ周辺は、プロスキーヤー&スノーボーダー、ガイド、フィルムメーカー、一般客が晴れた日のヘリシートを巡って凌ぎを削っていました。
今まで無かったヘリスキーに対して急激に需要が生まれたので、殺伐とした空気はあったし、ヘリスキーのコストも雪だるま式に高騰。
最初の開拓者はバムも多かったので、2000年を過ぎる頃にはその空気感や体制に嫌気を覚えた滑り手はアラスカに見切りを付けたのもこの頃でした。
その少し後に「高久智基と行くアラスカ」をスタートしたので、スキー場の無いバルディーズの街中にいた多くのプロ達が少なくなっている事に寂しさを感じました。
でも氷河の後退も進んでいるので変化が無い訳ではありませんが、ほとんどの斜面は変わりありませんでしたし、ガイディング技術も向上してるので「スノーボードと斜面と私」的には今も変わりありません。
多くのヘリスキーの場合は、パイロット、ガイド、客4~5名が基本となります。
日本人は体重が軽いので5名乗れる事が多くラッキーではありますが、20名とか100名とかで出来る訳ではありません。
残念ながらキャパシティーが決まっているのです。
「誰もが平等に楽しめたら」と感じはするもののバックカントリーでの滑走を試みる以上現実は甘くはありません。シートが足らずに乗れなかった時の愁傷感や過去10年のニセコ繁栄の裏側から学んだ事でもあります。
いろんなシチュエーションがあるので誰もが滑れるゲレンデでの時間も重要なのですが、際立ったライダーとしての一瞬やガイドとしての時間では、自分たちのグループだけが良い。
だってこれから得られるかも知れない一瞬が永遠かも知れないのだから。
今年の春のアラスカは行けないのですが、近年の内に復活予定です。
そしてニュージーランドの旅は今年の8月に行える様に準備をしたいです。
席は限られていますが4名の方と素晴らしい瞬間を共有する為に感覚とエッジを研ぐ事を忘れずに滑って行きたいと思います。
高久智基
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